散々言われ続けていることではありますが、最近の若者の活字離れは恐ろしいまでの進行を見せているようです。読書好きは読書好きでつるんでいた中学時代が懐かしいくらいに、高校では
つるめるほどの人数すらいないのが現状です。何故、世間にこれだけの良作が溢れていて、かつ、そのうちの幾らかは映像化(もしくは漫画化)されているにも関わらず、中高生の意識は読書へと向かないのか。何故なんでしょう。
責任の一端は最近のライトノベルの傾向にもあるような気がしています(それが全てとはもちろんいえないのですが)。最近のラノベで強調されているのがやはり『萌え』に走ったものです(この『萌え』ってのどうしても書きたくなくて忌避していたのですがついに書いてしまいました……)。中学時代に読書好きと言って顔見知りになった友人も半数はそちらの住人でした。もちろん『萌え』だけの為に中高生がそれらの本を買っているのではなく、それを面白いと思って買っているのだろうということも理解しているつもりです。ですが、それを読書などほとんどしないという人が見たら、結局は一緒なのです。試しに読んでみろ、と言ったところで人の目を気にしなくてはいけないようなイラストがついた小説を読もうと思う輩はほとんどいないでしょうし、最近のメディアからのオタクについての情報しか知らない人からすれば軽蔑の対象にすらなりうるかもしれません。
ここに、活字離れ→読解力の低下→一部のラノベ人気→一般人忌避→活字離れ。といった小さな悪循環があるような気もします。読書家と非読書家の溝は深くなっているのです(主に若い年齢で)。そういう所に芥川賞未成年受賞のニュース(ちと古いですが)は良かったのでしょうけれど、実際芥川賞って何だよ? っていう人が多すぎてあまり効果はなかった気もします。
ええと、だいぶ混乱してますが、つまり、ライトノベルの垣根を低くするのはまあある程度やむを得ないことかもしれませんが、それを変な方向にばかりもっていってどうするんだ、という事です。
こんな弱小ブログで何を言おうとどうしようもないわけですが、ただ言いたかっただけです。
こんな話もあります。僕は現代文の授業をそれなりに楽しんで受けている口なのですが、たまに周囲に辟易することがあります。教師が「この老人の~~という仕草から、この老人の性格を端的にあらわしなさい」と言いました、僕はノートに問題文を書いて、「純朴」と小さく書き添えて教科書をぱらぱら捲っていたのですが、教師が僕の隣まで来て、おっという顔をして「それを発表してください」と言うのです。大抵こういう場合は漢字2字なんかの答えは発表対象にならないので、僕は怪訝に思いながらも「純朴」とだけぶっきらぼうに言ってみました。すると周囲が軽くどよめいて僕に言いました「それどういう意味?」教師は呆れた風に見回して、黒板に純朴と漢字で書きました。
全ての高校生がこんな漢字がわからぬはずもないでしょうし、これはただの一例です。読書をしていれば何度も出てきてわからなければ調べる。そういうことをしていれば知っているはずの漢字を知らない人が多すぎるのです。漢字は書くのも読むのも苦手な僕ですら習慣として知っているのですから、知っているのが普通だろうと思いますが。
こないだ友人に「国語は才能の教科だから、他は努力でなんとかなるけど、どうにもならないよな。努力してないから他は全滅なお前も国語だけはできていて羨ましいよ」などと言われました。ちょっと待て、と。国語が才能? なんのこっちゃ。それは僕がここ1年とちょっとで読んだ冊数を聞いてもそう言うのですか? そう言いたいところでしたが根暗と思われたらそこで終わりの高校生社会でそういう発言はご法度なので僕は「天才だからね」とだけ言っておきました。笑いがとれた、結果オーライ。
途中から愚痴なのか自慢なのかわからないものなってしまいました。大変お目汚しな文でいつもながら御免なさい。
なにぶん文の推敲作業というのが嫌いなので、思ったことを思った順に垂れ流すことしか能がないのです。言い訳。
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